映画に様々な視点を盛り込む季刊映画誌『PRISMOF』。PrismとOfの合成語で、映画のプリズムと映画を見ている人々のプリズムを表す意味を持っています。作品をさまざまな角度から再び照らし出し、観客の映画体験を広げ、ずっと大切に持っていたくなる雑誌でありたいと制作されてきました。
『PRISMOF 21』のテーマは“ユンヒへ”。韓国での映画の公開から2年経った2022年2月、日本での映画公開に合わせたかのようなタイミングで出版されました。映画への愛情がこめられた多様な視座で『ユンヒへ』を読み解きます(表記は韓国語)。
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『PRISMOF 21』では、『ユンヒへ』の映画の魅力からはじまり、映画の中で描かれてきたクィアやフェミニズムについて映画史的な文脈を踏まえて語ります。 また韓国で同時代に製作された女性の映画の傾向と、女性のクィア映画が持つ特性を探ります。 それらを通して、この作品が占める位置を多様な観点から測り、『ユンヒへ』から繋がっていく他の物語へと視点を広げていきます。
本誌のデザインコンセプトは、手紙、月、そして写真という3つのキーワードで構成されています。 表紙はユンヒとジュンが再会した瞬間の情景を、まるでフィルム写真がにじんだように表現しました。二人のシルエットの上には、銀色の満月が浮かんでいます。 本文のグラフィックは、思い出の古い写真を挟んでおいたアルバムのようなイメージで制作しました。
〜出版社レビューより
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◎目次
《LIGHT》
・ジュンへ、ユンヒへ
・レズビアンの愛、その激しいロマンの年代記
・「フェミニズムリブート」と韓国の女性映画の躍進
《PRISM》
・ここはあなたにも似合う場所
・静寂の中で動きはじめる音がする時
・小樽の目と二つの記憶
・『ユンヒへ』と不満
・話さないことで見えてくる女性たちの満月
《SPECTRUM》
・郵便を送る/温度を分け合う
・観客アンケート“追伸、私もあなたの夢を見る”
・ 韓国女性の喜びと悲しみ
・ママと娘の形
・インタビュー“喜びと愛、連帯の間で揺れる女性たち”
・撮りながら(描きながら)欲望を抱くレズビアンたちの世界
・あなたがどうして泣くの? 泣きたいのは私なのに
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本文「話さないことで見えてくる女性たちの満月」より一部抜粋
『ユンヒへ』は、二人の中年女性を主人公にしたという点だけでも既に成功していたと思う。 でもこの作品が描く女性は、ユンヒとジュンだけではない。『ユンヒへ』には、主人公二人に同行するもう一人の女性たち、マサコとセボムが登場する。
マサコはジュンの叔母で老年の女性だ。 昼には「オーバーロード」というカフェを運営し、夜には主にそこでSF小説を読みながらジュンの退勤を待つ。 興味深いのはマサコもジュンと同じ、一人暮らしの女性だということだ。 老年の女性を描写するとき、大抵その女性は家族の一員として描かれる。それを支えている感情が愛憎であれ犠牲であれ、家族構成員との関係性が設定されない老年女性の人生は描かれることがほとんどない。 このような老年女性のイメージは、中年女性が与えられた母親または妻のイメージから、時間だけが延長されたバージョンに近い。 しかし『ユンヒへ』のマサコはその型を静かに打ち砕く。 一人で生きていくことができ、はっきりとした趣味と趣向を持った老年の女性がマサコだ。 たとえマサコがジュンと一緒に暮らしていても、彼女たちの姿は血縁関係から出てくる特有のメロドラマ的な雰囲気を帯びるのではなく、独立したそれぞれの個人が同居しているという佇まいである。
『ユンヒへ』は10代の少女のセボムを描写する時も特別だ。 セボムが周りの大人に接する姿は、率直さと唐突さが同居している。 例えば母親の過去を聞くセボムに向かって、写真館の叔父が「今日はなんだかおかしい」と言うと、セボムは「叔父さん以外にママのことを誰に聞いたらいいの」と当然のように言い返す。 また、父親には新しいガールフレンドに優しくしてあげてと言葉をかけたりもする。 何でもないセボムは結果的に家父長的世界に微細な亀裂を作り出し、その世界で止まっていた母の人生に語りかける女性として存在する。
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本文「撮りながら欲望を抱くレズビアンたちの世界」より一部抜粋
『ユンヒへ』は、二人の中年女性を主人公にレズビアンの愛を描いた映画『キャロル』(2016)、『ロニートとエスティ 彼女たち』(2017)、『燃ゆる女の肖像』(2019)、『ユンヒへ』(2019)に見られる共通点は、写真/絵、または写真を撮る/絵を描くレズビアンである。『キャロル』のテレサ、『ロニートとエスティ 彼女たち』のロニートは特定の被写体をフレームの中に収めるカメラマン、『燃ゆる女の肖像』のマリアンヌが肖像画画家という設定は、レズビアン映画が構成する世界においては特別な要素である。 この歪んだ世界で写真を撮ったり、絵を描く行為を通じて、レスビアンの主体は社会的にタブー視された愛を内密に表現し、取り交わす。 つまり、このような行為は社会が許さない欲望の対象を公式に覗き見て、目に留めることができる当然のことだ。
(中略)
『ユンヒへ』でも写真は重要な装置として登場する。 しかし、『ユンヒへ』の中の写真撮影は、前述した映画と違い、欲望を可視化する行為ではない。 この映画にはレズビアン当事者が直接見つめ合い、それを写真または絵にする場面の描写が完全に省かれている。 ユンヒとジュンの関係はアルバムの中の過去の写真だけでかすかに提示されるだけだ。
(中略)
『ユンヒへ』はその他のレズビアン映画で使用された写真撮影という装置を全く異なる形で共有する。 撮影による「見る」過程が省略され、第三者が彼らと向き合うようになっている。 だからといって、『ユンヒへ』の中のセボムに引き渡された写真撮影の行為は無意味というわけではない。 それどころか、セボムには見えているある態度は、隠されたきた2人のレズビアン女性を可視的な領域に連れてくるという点で『ユンヒへ』ならではの映画的表現を形成している。
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著:PRISMOF 編集部
出版元:PRISMOF PRESS
表記:韓国語
H250mm×W170mm/168P/2022
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